早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第三十八回 「原爆さん」という人がいた

早田カメラの中で(1966) 早田カメラの中で(1966)

この人、店の中でカメラを修理しているんだけど、なんでウチに来たのかよく知らないんだよね。広島の出身で、原爆が落とされた時にも広島にいたんだって。だから、体が変っちゃってるんだよ。何しろ暑いの。1年中暑くて夏は本当にもうパンツ1丁でもいいくらい、裸でいたいくらい暑い。冬でも暑いから上着も何もいらないの。みんなが寒がっているのに1人だけ全然平気。いつも真っ黒いシャツと真っ黒いズボンで、変なおじさんだった。名前は知らないよ。原爆さんって呼んでいたから。

店に出入りしていたのは1年ちょっとの間だったかな。ふらっとウチに来て親父に「俺はカメラの修理できるからやらせてくれ」みたいなこと言ったらしいの。それでやらせてみたら、親父に言わせるといい加減で大したことないのよ。だからお前ダメだよと言ったんだけど、店に何度も姿を現すんだよ。それで半分認めて、半分認めないみたいな感じで原爆さんはしょっちゅう来てた。親父は原爆の被害者だからまぁいいか。みたいに思っていたのかもしれないけれど。でも全然普通の人じゃなかったね。

原爆さんが言うには、彼はアメリカでカメラの修理をして食っていた。そういうキャリアなの。なんかね、アメリカに行く船の荷物に隠れて行ったんだって。向こうで船から出てくところを捕まりそうなのを逃げまくって、結局アメリカにいたらしいの。パスポートはないんだよ。どうやって日本に帰って来たかって? そんなの知らないよ。強制送還されたんじゃないの。ちなみに浅草カプチノの料理長に聞いたんだけど、戦後間も無い世代のコックの人たちは結構な数がアメリカ行きの貨物船に潜り込んで密航しているんだって。それでアメリカで修行して、いよいよ危ないというタイミングで日本大使館に逃げ込んだりなんかして戻って来て、その後いろんな有名レストランのチーフになったらしいよ。

それでね、原爆さんはコックじゃないから何をしたか? ニューヨークのゴミ箱を漁ったんだって。要するにアメリカで乞食をしてたってことだよ。何が出るかって言うと、使い捨ての訳のわからないおもちゃカメラの壊れているのがいっぱいあったんだって。それを直して、また違うところに売って食っていたわけ。そうやってカメラって単純で面白いって覚えたの。だから、難しいカメラはわからないのね。それをうちの親父はアホだからライカを渡して修理させちゃったのよ。

しかもそのライカは、うちのお客さんの鳥山さん(第二十七回に登場)のカメラだったんだよ。それで鳥山さんは相当に詳しい人だったから「このカメラの修理の仕方は間違ってる」と。ここはこうじゃないといけないと言ったら、店の真ん中で「俺が直したカメラに文句を言うんじゃねぇ」ってバンッ!と叩き付けちゃったの。お客さんのカメラを。しかも鳥山さんのだよ。もう最悪でしょ。バカなの。それっきり出入り禁止。要するに自分の修理が正しいと言い張る、そういうバカな奴がいるんだよ。その他にもあの頃は、お客なんだか誰なんだかよくわかんない人が死ぬ程一杯いたんだよね。