早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第三十七回 民衆病院のS木さん

早田カメラの前で(1976) 早田カメラの前で(1976)

これは、ウチによく来てくれていたお客さんのS木さん。恰幅のいい立派な紳士だって? まぁ、この写真だとそう見えなくもないけれど、初めて来たときはビックリですよ。S木さんはね、親父が死んでからしばらく経った頃、夜にブラーっと入って来たの。それが珍しいことにベルトが蛇革で上も下も赤白の訳のわからない、もうびっくりするような格好でね。思いっきりヤクザもんの親分よ。だって一緒についてきた子分が全部チンピラだもん。それがゾロゾロっと入ってきてね、カメラが欲しいって言うんだよね。

それで使い方を「ここをこうしてこうやって」って教えたら面白いって買ってくれてね、次の日も来たの。それからほとんど毎日のように来てた。今日はこれ、今日はこれって毎日のようにカメラを買いに来るの。最初は変なオヤジでイカれてると。最初はうーんと思ったけど毎日来るわけよ。金払いはいいし買うからいいかと。何しろ毎日来てた。それでライカやら二眼レフやら日本のカメラも、ともかくバンバン買ってくれて。「何かねぇか」って言うから二眼レフのAからZまで揃えて持ってる人は日本にはそういないよって言ったもんだから、夢中になって集めたみたいね。どんな写真を撮っていたのか知らないけど、カメラが好きになっちゃって毎日来たのよ本当に。それで奥さんにすっごい感謝されたのね。

あの子分のチンピラたちは、要するにボートレースの後にくっついて来てたんだよね。S木さんは毎週ボートレースに行って、買ってたわけ。そうすると先生先生とか言って変なのが集まってくるんだよ。奥さんが言ってたけど1週間に600万円ずつ負けてた。だからすっごい借金かかえてたって。そのギャンブル癖がカメラの趣味を始めたら抜けちゃったの。

S木さんは何者かって? もう違う名前になったけど民衆病院の院長だったの。今じゃ考えられないけど正月に浅草とかいろんなところに浮浪者が寝てるのは不味いから大晦日までに国がお金を払ってお医者さんと一緒に診療するんですよ。その病院なの民衆病院って。暮の1週間とか2週間くらい前から車で回って、いろんな寝てる人とか診察して「あ、この人は連れていったほうがいい」ってやって収容するのよ。その病院なの。それが北千住にあった。そこの病院長が鈴木さんなの。超ヤブよ(笑)。

S木さんはうちでカメラを買うようになってから銀座にも通い始めて相当な数を買ってたし、それだけじゃなくて香港に顔が効いていたから相当な数のライカなんかを自分で日本に持って来ていたの。亡くなって銀座のカメラ屋の息子が引き取りに行ったら、あまりの数に見ただけで気持ち悪くなって倒れちゃったって話だよ。亡くなったのはだいぶん前だよ。58才だったからうちの親父と一緒。肝臓癌でずっと丸山ワクチン打ってたの。それをスイスの民間療法か何かに行って「僕は治った」とか言って辞めちゃったら急にバタッと。彼には丸山ワクチンが効いてたんだね。すごいいい人だったよ。浅草のすごーい高い店に連れていってくれたりして、俺は大好きだったよ。