早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第十八回 フォトバザール・ジャパン

フォトバザールのポスター(1996) フォトバザールのポスター(1996)

ウチの店に来てもらった人には分かると思うけど、ちょっと変わった作りでしょ。設計した建築家の先生は京都のお茶屋をイメージしたと言ってたけど、細長ーい通路の左側一面がガラスのショウケースになっていて、その先に入口があるよね。その細長ーい通路の正面突き当たりに飾ってあるのがこのポスター。これはミュンヘンのフォトバザールっていう店の軒先に飾ってあった看板のデザインなんです。

何でミュンヘンのカメラ屋のポスターを飾っているかというと、うちの店を有限会社にした時にフォトバザール・ジャパンっていう名前にしたんですよ。それまでは個人商店でやっていたんだけれど、ヨーロッパで買い付けて来たカメラを整備して売るようになって商売も上向いたんだけど、すごい金額の税金を払わなくちゃならなくなって、これは会社にしないとマズいということになったの。で、会社の名前を考えるとき思いついたのがフォトバザール・ジャパン。

初めて会った時に壊れた日本製のカメラを預けられて、2度目にミュンヘンに行った時に修理したのを持って行って以来、ずっと仲良くやっていたこともあるから「今度うちの店を会社にするのでフォトバザール・ジャパンって名前にしていいか?」って聞いたら喜んでくれてね。それで会社名を登記したのが1996年でした。

ミュンヘンのフォトバザールを経営してたのはスロビッチ兄弟で兄はイチャック。聖書に出てくる名前だとイサクだね。弟はChone。コネって英語読みにしないでドイツだとホネって発音するの。2人とも苦労してるんですよ。元々はポーランドの出身で、ナチスドイツがポーランドに侵攻してユダヤ人狩りを始めたでしょ。そこで逃げきれなかったポーランドのユダヤ人はアウシュビッツで殺されることになったんだけど、スロビッチの家族も殺されたりしてるの。幼かったイチャックとホネは、ポーランドからソ連のノヴォシビリスクに逃げるんですよ。シベリアのド真ん中だよノヴォシビルスクって街は。すげー遠いよポーランドからは。そこから終戦後は共産主義の国になっちゃったポーランドには戻らずに、ミュンヘンに流れ着いたの。

でね、そこでラリターテンセンターっていうカメラ屋で丁稚に入った。もちろんそこの店主のラコッチもユダヤ人だから同胞を大事にしてるんだよ。こうしてスロビッチ兄弟は一生懸命に勉強して、ミュンヘンオリンピックの時だから1972年に独立するんですよ。うちは1952年に店を開いているけど、フォトバザールの方がすごい。そんなわけでミュンヘンのフォトバザールが25周年の時に作ったポスターをもらって、それを大きくしたのを今の店に飾ってるんですよ。