早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第十六回 早田清、フォトバザールに出会う その2

ミュンヘン(1987) ミュンヘン(1987)

ミュンヘンの駅で両替して、戻ろうとしたらザウターの場所が分からなくなって道に迷って偶然見つけたフォトバザールでカメラを買おうとしたら、壊れた日本のカメラを店の地下室から持ってきて「これを直せるか?」と訊いてくるから「直せるよ」って答えたのが前回までのあらすじ。でも持っていくのはいいけれど、今度いつ来られるか分からないよって言ったんだよ。そうしたら「どうせ壊れているし、こっちでは誰も直せないからいいんだ」ってことになって、引き受けることになったんだよね。

それはもうすごい荷物ですよ。買ったカメラだけじゃなくて、壊れたカメラも預かってウィーンの宿に戻って全部スーツケースに詰め込んで死ぬ思いで運んだの。靴下の中にまでレンズが入っているような状態で、やっとの思いで日本に帰ってきてね。それぞれ整備をして、仕入れたカメラは、あっという間に1週間で全部が売れました。いや本当にビックリですよ。

その当時の日本ではビトマチックとかベッサマチックなんて見たこともないカメラっていう感覚だったよね。日本のカメラ屋さんもヨーロッパでは安く売っているのは知っていたけど修理にいくらかかるか分からないし、そもそも日本では誰も直していないカメラでしょ。だったらライカ買ってきた方がいいってなるのを、こっちはフォクトレンダーとかにしたのがよかったんだよね。

その翌年の夏に、大学生協の夏休みツアーの航空券を手に入れて3回目のヨーロッパに出かけたの。その時はお母さんも一緒。フォトバザールのスロビッチとは手紙でやりとりしていて、家族も連れてこいって書いてあったからね。手紙は井口先生にドイツ語で書いてもらっていたから完璧だったの。だから「ハヤタ、お前の喋るドイツ語は変だけど、手紙は完璧だな」って言われてた(笑)。

預かったカメラを全部バッチリ修理して持って行ったら驚かれたね。こっちはヨーロッパのカメラを仕入れに行ってるんだけど、欲しいカメラを全部買うには手持ちのお金が足りないって言ったら「金なんて関係ない。今までカメラを預けて、戻してきたやつは1人もいなかった。お前は約束を守ったから俺たちのファミリーだ。だから好きなのを持っていきなよ」ってなったんだよ。そんなに沢山は持って帰れないから困っていたら「ウチから送るから」って発送までしてくれてね。そうなると仕入れたカメラのお金を返しにかなきゃならないから、それから25年間もフォトバザールとの付き合いは続くことになるんだよね。