早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第十一回 マサさんとコンタックス

熱海にて(1970) 熱海にて(1970)

私は早田清の母親のマサです。大正5年の生まれで今年102才になります。この写真は、父さん(早田清二さん)と息子の清を連れて熱海の交換会に行ったときのもの。旅館のテーブルの上にあるのはドイツのコンタックスだね。コンタックスは、いくつも買ったり売ったりしたよ。そのうちの1台だね。

交換会っていうのは、店によって得意な品物があるから、それを持っていって売ったり、品薄なものを仕入れたりするの。普段は東京でやっているんだけれど、1年に1度、熱海に集まって交換会が開かれていた。それには東京の店だけじゃなくて名古屋の方からも来てたよ。

ウチは戦後になって警視庁の備品の切り替えを、錦糸町で一切合財そっくり買ったの。警察犬を訓練するところの倉庫まで現物を見に行って、箱カメラからマミヤから全部扱った。そのあと今度は遺失物も買ってくれってなって扱うようになったの。入札で。そうしたらその関係で今度は国鉄の方から鉄道の遺失物を買ってくれって話がきて、場所は南千住の倉庫。警視庁は飯田橋の遺失物保管所。全部引き受けて、その中にはドイツ製品がなんぼかあるの。でも、どうにもならないものも溜まっちゃうの。そういうのを交換会に出すと、欲しがる店もある。警視庁の入れ替えと遺失物。その流れで国鉄の遺失物。これが大きかったんだよ。

父さんは戦後になって日本製品も出てきたけれど、やっぱりドイツ製品じゃなきゃダメだって。日本のカメラなんか終戦直後はやたらに出てきたんだよ。ペトリとかヤシカとかいろんなカメラ、サモカとかビューティーとかね。いろんなのが出てきて、二眼レフも残るかと思ったけれど真似事だからみんな潰れた。戦争中にあったのは、マミヤとコニカ。オリンパスは形だけで全然売らなかった。アサヒも戦後に一眼レフを作ったけどね、やっぱりドイツの真似事だった。エクサクタなんてカメラがあったでしょ。アサヒはただ残っただけの話。なんといってもカメラはドイツだよ。コダックのフィルムだけはいいけど、アメリカのカメラはダメ。ちょっとやかましい35ミリも作ったけど、壊れたら最後で直らない。父さんが1週間かけて2階にこもって修理してもとうとう直らなかった。父さんは「アメリカのカメラはダメだから扱わない」って。だから清には扱わせなかった。

それから後に、清がドイツに行くことになったのは、上智大学の先生が連れて行ってくれたのが始まり。私が店番してる時、ドイツのカメラが好きな上智大学の井口先生がお店にきて仲良くなってね。その先生は、私が蕗を煮ると来るんだ。こんな田舎の蕗ですけど上がりますかってすすめると、お茶飲みながら上がってくださった。大好きなんだ。その蕗を思い出すとウチに来てくれていた。週に一度くらい、不思議と私が蕗を煮た日に来たの。あの先生と仲良くなったのは伽羅蕗。あれが縁なんだ。蕗を思い出したらこの店に来たくなるって。