早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第十回 マサさんの店番

早田カメラにて(1955) 早田カメラにて(1955)

私は早田清の母親のマサです。大正5年の生まれで今年102才になります。この写真は、今の場所に店が移ってきてから撮ったものだね。もう60年以上も前だけど、父さん(早田清二さん)が元気な頃はよく店番していたよ。

父さんが亡くなってからは、店のことは息子の清にまかせたの。私がいて邪魔になるといけないでしょ。それで明治生命の保険の集金の仕事をずっとしてたから、今でも厚生年金をもらっているよ。戦争が終わってすぐの頃はカメラを扱いたくても仕入れられなくて、ミルクホールをやってた。疎開先でちょうど牛を飼っていたからね。牛乳を持ってきてアイスクリーム屋をやったの。慣れないのに機械を使って私が作ったの。父さんは飲食店なんて男のすることじゃないって。

いろんなことしてたよ。あとは端切れを仕入れてきてブラジャーを作って売っていたの。オペラグラスは、群馬県の赤城山のほうの開拓地にいた引揚者が作ったのを群馬県の農協の人が何とか売ってくれって持って来たのを父さんが扱ったの。ヒロポンを抜くのに猿ヶ京で過ごしていた頃に知り合った人。カメラ屋なら売ってくれるんじゃないかって頼られたの。これをなんとかしてもらいたいって。父さんがね、初め東京都に持って行ったかな。許可がいるから。結構売ったよ。安く売れるから。周りを綺麗にしたのは高かったけれど、安いのは300円だった。

カメラ屋になって間もなくね、カメラをそっくり盗まれたこともあったの。でもね、警視庁に知り合いがあったのと、品触れ(警察が古物商に出す、盗難があったと思われる品物のリスト)が早かったから全部戻った。それはね、警視庁にうんと知り合いがあったおかげなの。品触れを書くことを刑事さんに教えたりして警視庁と仲が良かったから。ボディ番号、レンズ番号を書いて、その書き方を刑事さんに教えてたの。そんなもんだから、品触れ2冊が東京中に回っちゃった。だから全品無事に帰ってきたの。

私の孫がね、ロンドンでカメラの部品をなくしてカメラ屋に入ったとき私の叔父は東京浅草でカメラ屋してるって言ったら『僕そのカメラ屋を知ってる。東京に行けば必ず寄ってくるよ』ってロンドンのカメラ屋が早田カメラを知っていたって私に教えてくれたの。日本だけでなくロンドンでも知れてるって。店を出してすぐの頃はあんなちっちゃなカメラ屋なんか仲間に入れられないって言うカメラ屋もいたんだから。嬉しいよね。雷門から今のところに行くまで、結構いろんなことがあったなぁ。でもカメラ屋が続けられたから本当に良かった。ドイツのカメラを扱わなかったらとっくに潰れてるよ。