早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第九回 結婚はしたけれど

目黒雅叙園にて(1942) 目黒雅叙園にて(1942)

私は早田清の母親のマサです。大正5年の生まれで今年102才になります。この写真は、雅叙園でやった結婚式。昔は雅叙園っていったら大変なところだったの。でも結婚式には私の友だちは1人っきりしか来てくれなかった。だって戦時中だもの。その人も、もう亡くなったよ。

早田マサ 102才 (早田マサ 102才)

私を父さん(早田清二さん)と合わせたのは、西荻窪にあった叶屋っていう質屋なの。うちは親が持っていた山を伐採して、その資金で質屋やカメラ屋をやってた。叶屋っていう屋号で、番頭さんが店を出すとそこも叶屋。東京中に叶屋があって質屋さんでは名前が通ってた。それだから父さんは東京中の質屋を回ってライカを軍に収めてた。その頃のカメラ屋っていうと、新しいカメラなんて作ってないから質屋さんの買出し以外どうにもならなかったからね。

ドイツのカメラを軍が使うんで探せって、父さんは質屋を回っていたから。とにかくもうライカライカでね、ライカを探すのが大変だったの。軍が探せっていったって、そんなにちょっくら探せるもんじゃない。そうやって苦労して軍に収めていたら、外国のカメラを扱っているからといって警察に捕まったの。警察のほうは自分の手柄にしたいから、なんとか獲ろうと思ってやったんだよ。

引っかかったのが、国家総動員法の違反。輸出入商違反という罪がついた。癪に触った。悔しかった。それでね、2千円の罰金といってきたの。昔の2千円だから大金だよ。罰金なんか納めるもんかって。ライカカメラを探しに探して軍に収めてそんなに儲けてないのに、罰金なんて払えないって、そのままにしていたら終戦になった途端にパァ! 何にも取られないし、罪もパァ! 全部パァ!だ。

結婚してすぐの頃だよ。昔の警察っていうのはね、これくらいの疑いで引っ張ったの。終戦で、引っ張ったほうがみんなパァになったの。父さんは牢屋には入ってないよ。でもね、連れて行かれたとき、留置場に置かれた。だから、その頃に住んでいた大井町から、大崎警察に弁当を届けに毎日歩いて通ったよ。

でもね、警察にもいい人はいてね、父さんが20才の頃に古物取引の鑑札(許可証)を出してくれた今井さんっていう刑事さんは戦後に警視庁の第1課の課長さんになったの。強盗殺人の第1課。1課は殺しだよ。2課は文化の方。詐欺とか横領ね。3課は盗難・窃盗品。全部の刑事さんがうちを応援してくれたよ。それで1課の今井さんは浅草の雷門の店に必ず寄って、俺が作った鑑札だっていってくれてた。父さんのことヤクザなんじゃないかといった人もいる。でもヤクザなんかじゃないんだよ。