早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第八回 ミルクバー オックス

早田商店(1952) 早田商店(1952)

オヤジが最初に浅草・雷門2丁目で開いた店は、横から見るとバラックみたいなもんだよね。全部で27坪。この界隈は東京大空襲で焼けちゃったんだから、こんなのが普通だったの。でね、そもそもオヤジはどうして戦後になって浅草界隈に店を開けたのかっていうとね、サトウハチローさんのところに出入りしていた弁護士さんか誰かに世話してもらったんだって。サトウハチローさんは有名な作詞家ですよ。「リンゴの唄」とか「ちいさい秋みつけた」それに「悲しくてやりきれない」も作詞してる人だよね。

何でそんな有名人と知り合いだったのかは分からないんだけど、小さい頃にオヤジが「サトウハチローは、ゴールデンライカを持ってる」って話をしていたのは良く覚えてる。ゴールデンライカって、戦前にライカが少数作った金メッキのモデルで、幻のライカですよ。それをどこからか知らないけど手に入れたんだって。オヤジは目黒雅叙園の写真室で16才から丁稚をしてカメラのことを覚えて、ライカやコンタックスなんかをどこかで仕入れては売っていたから、その関係でサトウハチローさんに知り合ったのかもしれないね。

看板を見てみると、最高値買入 早田商店と書いてある。何を買い入れるのかというとカメラだって何だって買うんだけど、この並びに真美堂っていう老舗のカメラ店があったから遠慮して何を買うかは記していなかったたんだと思う。でね、看板の横にはアイスクリーム 卸小売ってあるね。店の側面にはアイスクリーム ミルクバー そして材木が立てかけてあって見にくいけどOXってあるね。マルバツじゃなくてオックスですよ。ミルクバー OX。早田カメラになる前は、牛乳を出す店だったんですよ。オックスって雄牛だけどね。

で、牛乳はどこから来るのか? とにかくオヤジは、いろんな人と知り合いになっちゃうみたいで、千葉で牧場をやってる人が友だちだったんだよ。そこは3人でやってたんだけど、1人、もう1人と徴兵で出て行っちゃって、いよいよ最後の1人にも招集が来ちゃった。とりあえず誰かに面倒を見させなきゃってことでオヤジの両親を住まわせて、オヤジの弟夫婦にも牧舎の世話をさせてた。戦時中は千葉の練兵場に牛乳を収めてたんだけど、戦争が終わってさ、どこに牛乳を持っていこう?ってことになって浅草のミルクバー OXにつながるんですよ。

出だしはミルクバーだったんだけど、韓国の人からアイスクリームを作る機械はいらないか?って話を持ちかけられてアイスクリームも作るようになったんだって。浅草中の映画館とか喫茶店のアイスクリームは早田商店で作ったものだからね、すごく景気は良かったんですよ。