早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第三回 鏡の中のライカフレックス

早田カメラの鏡の前で(1969) 早田カメラの鏡の前で(1969)

この写真に写っているのは、若い頃の自分だね。19か20才ですよ。写真だと少し分かりにくいかもしれないけど、すっごく痩せてたの。身長は今と同じで180cmあって体重は56kgだったからね。背広は細身のY体7号でね、それでもズボンはちょっとブカブカだったなぁ。何しろウエストが68cmしかなかったから。

それはそれとして何でスーツを着ているのかというと、店を継ぐ前にコニカに勤めていたことがあるんですよ。その当時はまだ小西六写真工業っていう名前だよね。6代目杉浦六右衛門っていう人が作った立派な会社なんだけど、経営的に行き詰まっちゃって大きな銀行が介入したりして印刷用の製版フィルムを扱う部門を分社化していた時期があったの。その会社の常務が母親の親戚だったから、少しは社会勉強させようという算段で「キヨ(=清)をよろしく頼む!」って感じで話をつけてきて会社通いすることになったんだよね。自分としては店は親父がやっているから、それもちょっとは手伝いながら小説家にでもなろうかなとか思ってたの。まぁ、1ヶ月もしないでそっちの才能はないと気づいたんだけどね。

そんな事情だから4月の入社じゃないんですよ。もう新入社員の研修が始まっていたところに「こいつは誰だ?」みたいな感じで入って行ったの。小西六は慶應大学の出身者がすっごく多くて、周りもみんな慶應ですよ。でもね、新人研修は写真とは?とか、フィルムとは?みたいなことで、こっちは家がカメラ屋で知ってることばかりだからノートも取らずにいたから、ますます「こいつは誰なんだ?」って感じだったなぁ。

もちろん仕事も結果を出してましたよ。上司のツカダさんって人が戦中戦後の物資統制の頃から大手の印刷会社と取引していたから、クルマで一緒に印刷会社を回るんだけど、どこ行ってもツーカーなの。製版の資材なんて軍部やGHQがみんな押さえていた時代に何とか融通してもらった恩義があるから、売上なんて簡単に目標を達成しちゃうんだよね。『遅れず休まず働かず』じゃないけど、こんなに気楽な商売ってないよなぁと思ってたし、「早田君、キミは実に真面目でよく働く。ゆくゆくは必ず部長の席を約束する」って、常務にも言ってもらえたの。それを親父に伝えたら、そんなの冗談じゃねぇ!宮仕えで辛い思いをさせようかと思ったら楽しやがって!ってなっちゃったんだね。ある日会社に行ったら「早田君、辞表が出てるよ」って。勝手に親父が辞表を出しちゃったんだね。ツカダさんは残念がって引き止めてくれたんだけどね。

ほんの1年ちょっとだけど、そんなこともあったという話。でね、鏡の中に写ってるのはライカフレックスですよ。とてもじゃないけどコニカの新入社員の給料で買えるようなカメラじゃないよね。だって月給2万円だもの。それをどうやって手に入れていたのかというと長くなっちゃうので、あらためて説明させてもらいます。