早田カメラ史 『懐かしの1枚』

第六回 早田カメラができるまで

早田カメラ(1952) 早田カメラ(1952)

これがね、今の早田カメラと同じ場所なんですよ。隣には蕎麦屋があるね。看板を見ると『笑福』って書いてある。大衆酒場をやってたんだね。で、ここに移ってくる前に雷門2丁目でオヤジは商売してたって言ったよね。そのアイスクリームを売ってた店とか近所の建物を壊して、ちゃんとしたビルを建てましょうってことになって雷門2丁目の通りはそのあと銀行が立ち並んで立派になったよね。そこで立ち退き料を何と300万円も貰ったんですよ。で、どぉしよう?っていうところでタイミングよく今の浅草の店が売りに出たからオヤジは買ったの。でもね、そう簡単には店が開けられなかったんですよ。

入口に板きれが打ち付けてあるでしょ。これじゃ出入りも住むこともできないんだけど、これはね、ここの土地を江戸時代からずぅーと浅草寺から借りてた地主の人が、近所のK州屋一家の若い衆に頼んでやらせたんですよ。この界隈はぜんぶ空襲でやられちゃっていたから、この五軒長屋は戦争が終わってから作られたものですよ。そこで商売しながら住んでいた人のうち、この酒場の持ち主からオヤジは買ったんだけど、それが気に食わなかったんだね。農地にしても借地にしてもGHQの戦後改革で、そこにいた人に権利があるっていう措置がとられたでしょ。それを知って酒場の持ち主はオヤジにこの物件を売ったんだし、オヤジは善意の第三者だし、やりあうんなら地主は酒場の持ち主と争うべきだよね。もう、とんだとばっちりですよ。

何だかんだで裁判になって、結局は地代家賃を地主に月々4850円支払うってことで落ち着いたんだけど、また何かされたんじゃ困るっていうんでオヤジが相談した相手が、オヤジがまだ未成年なのに古物商免許を出してくれて以来の付き合いがあった警視庁三課のデカ長Oシマさんだったんだよね。Oシマさんの柔道仲間が銀座にシマを持ってた偉い親分さんで、『悪いなぁ、おまえの名前で花輪ださせてもらっていいかい?』『あぁ、かまわないよ』って感じで話をつけてくれたの。店を開いたときには板を打ち付けた若い衆は驚いたよね。花輪の名前を見て『あの親分のお知り合いでしたか?』って血相変えてね。『こいつは、大変失礼いたしました(汗)』って、それっきり何もないんだよね。